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複数の独立した環境

所要時間: 約 3分

今日はあまり力の入らない日だったけれど、夕食は一人で食べる事はしなかった。駅で待ち合わせしてご飯を食べに行った。今日受けた試験についていろいろと聞いた。本当に頑張っているようだ。良い思い出が出来た。ぶつかったりしながらも、できるかぎり力にはなりたい。

ただ僕は明日にでも、またネカフェ難民に戻るかもしれないし、ホームレスにもなりえる。どこまで今の状況を維持できるか疑問だ。敵もいる。何度考えても詰んだ状況にまで行きつく。おそらくもう不可避だろう。

世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…

これは攻殻機動隊の草薙素子のセリフ。

今年の5月に品川であった事件について考える事があるし、加害者側に対して僕は共感する。諸般の事情でずっと口をつぐんで孤独に暮らしてきた人間にとって、その限度を越えた場合に残された手段なんて限られている。その反撃の矛先が、外に向かないと考えないなんて都合よすぎだ。

HHKBに触れながら、スマートグラスに映し出されるモニターをずっと見つめている。起きてから寝る直前までの、本当に覚醒している時間の殆どを、コンピュータの「中の世界」を見て生活している。それを毎日続けていると、その「中の世界」が本当の自分の世界なんじゃないかとも思える時がある。ちょっと大げさだけど、こういう表現をくだらない中二病っぽいと切り捨てる事もできるけれど、僕はそういう風には考えない。

映画やドラマを見ている時、その世界に参加している錯覚に陥いる。戦争映画を見たら僕は戦争に参加しているように思えるし、恋愛ドラマを見ていたら自分も恋愛をしているように思える。小説を読んでいる時は小説の中にいるし、漫画を読んでいる時は漫画の世界に参加しているように錯覚する。テレビは無いけど、同じ事が言える。

その瞬間に意識を向けている対象に対して、自分がそこにいるように錯覚する。錯覚といっても、その瞬間に錯覚しているなんて思わない。現実と呼んでいる別の環境に、強制的に意識を向けさせられる瞬間があるから混同しないだけだ。

ただし、それは映画やドラマといった創作物だけに言える事じゃない。誰かと通話している時、僕はその通話している人と時間を共有しており、意識はその人との会話の中にある。スマホで動画を見ている時、誰かとLINEをしている時、その意識はスマホの中にある。それらは分離された環境であると考える事もできる。

僕が普段触れている世界は、Emacs、GitHub、アニメ、自分のブログ、OSSのメーリングリスト、ChatGPT、数人の仕事仲間、自分でホスティングしているゲームサーバとそこにたまに遊びに来る仲間達。概ねそういった環境で生きている。それらがバーチャルな画面に映し出されて、それを見続けている。

そういった環境と、それ以外のどうでもいい環境がある。主系、副系という表現だと少しズレを感じるけれど、どの環境をを主系、どの環境を補助系と考えるかは、その人自身が決めていいし、今はそうやっても生活は成立していく。

一生懸命働いて生きた結果としてクソみたいな現実があるとするなら、その現実に価値は感じない。家族やおおよそ世の中で大切とされる縁ほどクソほどくだらない。というか、そいつらが諸悪の根源であるし敵だ。「邪悪になるな」っていう言葉、僕は好きだったけれどそうならざるを得ない時に遭遇したら、やっぱり邪悪になる以外の選択肢はない事は分かった。

やる事

  • Webページのデザイン改善
  • テクスチャを作ってみる