このブログは、私が考えた事を記録しておくためのものとして続けている。技術的な内容が多くはあるけれど、完全に正しいものを書こうとしている訳でもないし、主観を排除しようともしていない。むしろ、主観を盛り込もうとさえしている。ジャンルとしてはテクニカルエッセイに近いものなんじゃないかなと考えている。しかし技術的な内容に拘っている訳でもなくて、ただ単純にプログラミングとかソフトウェアが好きだから、そういう内容が自然に多くなっているだけだ。誰かの為に書いている訳でもなく、自分の為に書いている。勿論誰かの役に立つなら、それはそれで嬉しいけれど、それを目的としている訳でもない。
ある時、精神的につらい時期があって、そんな時に心の支えになったのは、Web上に転がっている文章だった。家族、同僚、友人、その他の周りにいる人にもきっと支えられていたはずだけれど、あまりそう思えなかったのは、自分の未熟な人格と思考力によるものだと思う。でもそうやって周りが見えなくなる程、一人でいる時間が長くて、簡単に言うと寂しかったんだと思う。これが未成年や20代前半なら、まあ理解できなくもないけれど、いい歳したおじさんが、こんな事を言っているのだから本当にみっともない。ただこの"みっともなさ"をむしろ大切にして、ちゃんと受け入れて、"みっともない人"としてちゃんと生活しようという事が、最近の目標でもある。
Web上の文章に話を戻す事にする。私が読んだ文章で心を動かされた文章がどんなものだったかは「何度も読み返したくなるWeb記事」でその一部を掲載したので、ここでは詳しくは触れない。最近書かれたものもあれば、もう10年以上前の文章もあったが、時間が経っても色褪せないような部分がどこかしらあった。その人が、その時にどんな事を考えたり感じたりしたのかという事が書かれていたように思う。
古い文章に特に多い事で気になっている事がある。それはリンクが切れている事だ。参照しているリンクにアクセスしようとすると、その記事は削除されていたり、ドメインが有効でなかったり、いずれにしてももうその文章を読むことはできない。きっと消えた文章の中に素敵な文章があったんじゃないかと思うと、この状態がとてももったいないと思えた。私が気に入っていた文章は、他の人からするとそれほど良い文章とは思えないかもしれないし、きっと誰も気にも止めない文章だったりする。でも私には、いろいろと感じさせ考えさせてくれる文章だった。これは事実だ。文章の良さは人によって変わるという当たり前の事だけれど、これはとても重要な事だと思う。誰か1人だけに深く刺さる文章というもの素敵だなと思う。しかもその誰かはもしかしたら、まだ生まれていないかもしれない。数十年後にその文章を読んだ人が、その文章によって何かを考えたという事がとても素敵だなとおもう。
先に紹介したリンク先で掲載している文章は、どれも良く推敲されていて、整っている。それはそれで良いけれど、整っている必要はないし、むしろ整っていない方が伝わる事もあると思う。体裁を整えたいなら、読み手は体裁を整えられる訳だから、素材に近い状態の文章を残しておく事にも意味があると思う。
私はソフトウェアのプログラミングを生業としている。技術的な進歩、流行、廃れが速く、日々勉強をしていないと周りから置いていかれる。私は会社員ですらないから、もし取り残されたら、野垂れ死んでいくのかもしれないと思う時がある。実際、リーマンショック後に仕事がなかった時期はあるし、普通に有り得る事だろう。業界的には人的流動性が高く、転職はできるかもしれないがクビになる事だってあるし、実際にそうなった。若い世代は優秀で様々な新しい技術を使い熟しているし、上の世代は幅広い知識を持っていてそうそう太刀打ちできるようには思えない。自分は常に中途半端な状態で、なんとかやっているに過ぎない。苦しい状況は人それぞれだけれど、そんな時に出会うちょっとした文章によって、今日ぐらいは生きてみようかなと気分になったら素敵だなと思う。自分の書いた痕跡が、そういう事を引き起してくれるとちょっと良いなと思ったから、文章として残すようにしている。
また自分の書いた文章を自分自身は忘れている事がある。たまたまWebで探し出した検索結果に出力された文章に目が止まって、ちょっと読んでみようなかと開いてみると過去の自分が書いた文章だったりする。内容も書いた事も、もう完全に忘れていてはじめて読むような感覚になるけれど、どことなく良さを感じる。過去の自分が出した手紙を、自分で受け取ったような気分になる。そう考えると自分の書く文章は、明日以降の自分への応援メッセージなのかもしれない。ちょっと大げさになってしまったけれど、そんな事を考えていた。